3年と少し前の秋、引越し先の駐車場で麻根木さんと出会った。
無遠慮に差し出した指先に、彼は頬を大胆にこすりつけ、私たちはすぐに仲良くなった。
当時私の家は駐車場から少し歩いた先にあり、私は彼を撒くように帰っていたのだけれど、すぐに家は突き止められ、それからは仕事帰りの私を駐車場から家まで送り届けるのが彼の日課になった。
近所の人と立ち話をすれば、そばでキリリとお座りをして、まるで犬のようだと笑われた。
彼がどうして野良になったのか私にはわからない。
のっぴきならない理由で飼い主に別れを告げられたのか、それともくだらない理由で捨てられたのか。
あるいは、何らかのトラブルで迷子になり帰れなくなったのか。
薄汚れてはいたが、特に痩せこけてもおらず、猫風邪などを患っているわけでもなくその暮らしぶりは野良としては恵まれているといってもよかった。
それでもやはり彼は前の飼い主から愛されていたのだろう。
彼は人間が大好きで、大好きで。一人が寂しくて、孤独な夜が悲しくて。
餌付けてもいないのに私とともに家に入ろうとし、ついには足繁く玄関前にすずめを捧げていくようになった。
野良にとって、それはどれほど高価な貢物だったろうか。
当時住んでいた地域は野良猫が多く、野良が野良を産み、また春には見知らぬ猫が増え、そして死んでいくところだった。
当然猫による被害も多発しており、やがてその攻撃対象は麻根木さんにまで及ぶようになった。
彼は、愛してやまない人間から石で打たれ、蹴られ、水をかけられ、罵声をあびた。
それでも彼は人間が好きだった。大好きだった。
大人でも、子供でも、男でも、女でも。少しでも好意的なそぶりの人間には、警戒もせずに尻尾をピンと立てて擦り寄っていった。
私はその賃貸を選ぶとき、ペットが飼えること。犬も猫も飼育許可をもらえることを条件に探した。
だけど、私は犬が好きなので、猫を家族に迎えるつもりなどなく、緊急性の低い猫を保護する気はなかった。
ところが、冬が押し迫るころ、猫嫌いの住民が野良猫を捕まえて保健所で処分してもらおうとしていることがわかった。
当然一番危険が迫っているのは麻根木さんで、私は肚を括ることにした。
まずは不動産に飼育許可を願い出る。
ところがここで思わぬ問題が発生した。
大家が猫は飼育許可を出さないと言うのだ。
どうやら、不動産が勝手に猫を飼ってもよいとの安請け合いを契約時に行っていたようだ。
おかげで、法律を振りかざして力で押し切る羽目になった。
不動産屋への教訓。重要事項説明はきちんと行いましょう。勝手に安請け合いをするのはやめましょう。
大家への教訓。何でもかんでも不動産屋に丸投げするのはよしましょう。契約内容くらいきちんと把握しましょう。
最初からこっそり録音してた私の勝ちです。
さて、無事に引き上げたものの、すぐに行った血液検査は、案の定『猫エイズ陽性』。
私よりもやや青ざめて結果を伝えに来た獣医さんには気の毒ではあったが、これだけ猫に対して喧嘩っ早い麻根木さんが、猫白血病陰性であっただけよかったと本気で思っている。
『一頭飼い、完全室内飼育、病気に理解を持てる人』そんな条件で里親を募集はしてみたが、案の定まともな物件はかかってこなかった。
「放し飼いにしたい」
「前の猫を放し飼いにしたら逃げちゃったから、代りの猫ちゃんが欲しい」
「事故で死んでも、それが猫の寿命」
こんなことを本気で言う、日本語(募集要綱)が読めない人しか応募してこなかった。
一度目の正月。
彼は名無しのまま年を越え、お正月はちょっぴりいいものを食べた。
正直、私のような一人暮らしの低所得者は、里親としては不良物件の見本みたいなものだ。
時間に追われ、大病を患っても満足に看病する時間も金もない。
麻根木さんは、ペット保険にすら入れない。
だけど、一度目の夏、私は彼に名を与え、家族に迎えることに決めた。
しょうがないよね、出会っちゃったんだから。
不良飼い主と、爆弾を抱えて生きる猫。案外お似合いかもしれない。
いびつな歯車同士だけれど、一緒に暮らして、通すところは通して、引くところは引いて。
そんな毎日で歪は歪なりに結構上手く毎日が噛み合って回っている。
三度目の正月。
まだエイズウイルスは静かに眠っている。
初詣の帰りに、彼のためにクッションを新調した。
ちょっと奮発して神様に賄賂のお酒を送って。それで、来年も麻根木さんとこの日を迎えられるようにお願いする。