久しぶりに、部屋を少し片付けて小銭をためているボトルの中を数えてみた。
ほとんど1円と10円玉で、それでも1リットルボトルの底の方に申し訳程度に貯まっている程度。
だけど数えてみたら1707円あった。
これでは注射の一本も打ってやれないし、一番安い餌でも10kg強が関の山だろう。
それでも、これっぽっちと言われるだろうが、それでも私はこの小銭の群れを「お賽銭」呼ばわりされたくない。
私がちょっとずつ何かを我慢し続けたお金だ。
私の気持ちで、私の時間だ。いわば私の一部なのだ。
それを好きにされたんじゃ堪ったものではない。
広島DPに集まったお金のほとんどは同じような想いの詰まったお金だろう。
子供がお菓子を少しずつ我慢したお金。
高校生が、ゲームソフトを一本我慢したお金。
大学生がコンパを一回我慢したお金。
社会人が化粧品の贅沢を、欲しかった何かを諦めたお金。
お金は送る人が何かを諦めて自分自身を削った、その人の一部だ。
ただ、犬たちの辛い顔を見るのが辛くて。
ただ、犬たちの幸せに満ち溢れた顔が見たくて。
ただ、もうただ、何か力になりたくて、少しでも何かしたくて自分の代わりにせめてと送った想いであり力なのだ。
お賽銭ならどう扱ってもいいと言うわけではない。
裁判で林代表が言ったとされる「賽銭」は本来の意味から大きく曲げられていると思う。
それを差っぴいたとしても、愛護団体に送られる寄付金は賽銭とは性質が大きく異なると私は思う。
例えば、内乱で荒れ果てた国に援助を行うとき、その目的を明確にして金銭物資を募る以上、その用途に口出し無用など口が裂けても言ってはいけないことだ。
用途から外れていると思えば、容赦なく問い質されるだろう。
それなのに、林代表は口出し無用と公言してはばからないようだ。
ちょろまかしていない、信じろと言うのだ。
どうやって信じろと言うのだ?
信じるためには信じるに値する材料が必要だ。
会計報告、犬たちの情報を網羅した報告。
不幸にして犬が亡くなった場合の原因の徹底究明と再発防止策。
ガラス張りの活動。
不器用でもいい、誠実さを垣間見ることのできる人柄。
そのどれもがこの人たちには欠けている。
確かに寄付は自己満足のために行う行為だと思う。
自分の寄付が、自分が助けたいと思った相手の笑顔の一部になっていると思うからこそ、満足が生まれるのだ。
だから、用途に口を出す。当たり前だ。
林代表に言ってやりたい。
見ているのでしょう?このブログを。
だから、活動日誌のコメントについて私が「拙いだろ」と書いた直後に件のコメントがまるで最初からなかったかのように消された。
私のつたないブログが注目されているなど奢る気はなかったが、タイミングから見てもう(元)AAにチェックされているとしか思えなくなった。
だから、ここで林代表に、(元)AAの面子に言おう。
用途に口出されンのが嫌なら寄付なんて募るんじゃねぇよ!
以下、どうでもいい近況っぽい愚痴。